にわかの歴史について

にわかは江戸時代なってできました。

現在知られている最も古い「俄」という言葉は元文2年(1737年)の浄瑠璃の台本にあるそうです。この中にカツラの使用と口合いによるオチらしきものがみられるそうです。

岐阜女子大学の神田卓朗氏が俄の歴史について氏の著「笑いの芸能にわか」で次のように書いています。
『にわか』の歴史をひもといてみると、その源流は、十一世紀・平安時代の芸能『猿楽(さるがく)』にさかのぼると見られている。・・・

にわかの発生は大別して三説があるそうです。(「上方俄の研究」より)

3.1

西鶴の「好色一代男」(天和2年1682年)に出て来る太鼓持ちの戯れを俄の始まりとする。これが事実だったのかどうか、太鼓持ちはプロ的であり素人芸を身上とする俄の起源としてはいくつかの 問題点があるそうです。

3.2

天和年間(1681~1883)に大阪で活躍をした辻噺家の初代米沢彦八が俄の創始者ではないかという説。大名を素人がまねをする「大名俄」が好評を博しました。しかし、彼はプロの話芸者であり、素人芸を信条とする俄とは違うのではないかとの説もあります。ちなみに落語の「寿限無」は初代米沢彦八の作ではないかと言われています。

3.3

享保年間(1716~1735)のある年の住吉祭りの帰り道で誰かが始めた即興の戯れがしだいに趣向をなすようになり、恒例化して俄になったとの説があります。そして俄が発生した後に「俄じゃ、おもひだした」が決まり文句になったことを「古今俄選」は伝えているそうです。にわかをする人が「俄じゃ、おもひだした」と言って聞きたい人がいれば「所望、所望(しょもう或いはしょもん)」と答えればにわかをしたそうです。

にわかの最初の文献は「清神秘録」(宝暦6年 1756年)です。その後、いろ   いろなパターンのにわかが出てきました。今のような博多にわかは天保(てんぽう)の終わり頃(1840年代)に口合い(語呂合わせ)のにわかとなって出てくるようになりました。

近世を通して最も優れた俄論を持っているのは「古今俄選」といわれています。安永4年(1775年)に刊行されました。「清神秘録」同様ににわかの源流は天岩戸(あまのいわと)の天鈿女命(天宇受売命・あめのうずめのみこと)の踊りと記されているそうです。

初期の大阪仁輪加は次のようなものであった。江戸時代の中頃、六月十三日から三十日まで市中で祭りに包まれる大阪で、異様な扮装をした者たちが町に繰り出す。一人または二~三人で組んで往来を行く。紙で作ったカツラをかぶり、   お多福や鬼の面をかぶったり黒子をかぶる。「所望(しょもん・しょもう)」と声をかけるとその場で滑稽な寸劇を演じる。謡、狂言、歌舞伎、浄瑠璃、をもじったり、からくりの口上、万歳の言い立て、流行歌を入れて道行く人を笑わせた。
天保元年には大阪俄の中興の祖といわれる村上杜陵(とりょう)が出て   にわかの形態が決まったといわれています。その後、曾我廼家喜劇、松竹新喜劇へと流れていくことになります。生前、藤山寛美が「喜劇の原点は、   にわかやとおもてます」(「笑いの芸能にわか」)と口癖のように言っていたそうです。

「手爾波(てには)狂言は照葉狂言とも言い、寛永(1848~1853)のころ大阪の商人、通人、粋人といった人たちが始めたものである。まじめな能狂言を通俗化したもの。衣装やせりふは本式の能楽どおりに演ずるが、ふいに当時のはやり唄を入れたり、俗っぽい踊りをいれたり、歌舞伎がったせりふや所作を入れて ドッと笑わせた。安政3年(1856)には大阪の幇間(ほうかん)連中(たいこ持ちの人達)は江戸の芝明神境内で興行をうった」(「にわか今昔談義」)

天保のころになると博多だけではなく小倉、久留米、柳川の文献に「俄」「俄踊」などの文字が見られます。

「では、いつごろから御神幸のおどけをにわかと呼ぶようになったのかという ことになるがこれは誰ともなしに言い出したことだろうから、もちろんはっきり断定はできない。しかしいろいろな文献から見ると、ばくぜんとはしているが、だいたい享保(1716~1736年)前後からであると考えられる」(「にわか今昔談義」)

10

「俄は遅くとも享保年間(1716~1736年)の後半にはその発生を見、その後、享保末年迄に大阪の人々の楽しみとして一応定着した。と解するのが妥当であろう」(「上方落語の研究」)

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