俄と歌舞伎について

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歌舞伎に笑いはないと思われている方もいるかもしれません。出雲の阿国が始めたころから喜劇役者のような人がいました。「猿若」と呼ばれる人達でした。  屏風や草子に描かれています。彼らは滑稽な扮装をしたり、滑稽なしぐさをしたり、また鳥獣の鳴きまねや著名人のものまねなどをして笑いをとりました。一人でものまねをするので独狂言(ひとりきょうげん)とも呼ばれていました。初代中村勘三郎(1598~1658年)は猿若勘三郎を名乗っていました。やがて笑いを担当する役者は猿若から道外(どうけ・道戯とも当時は書き今日では道化が一般的)に移っていきます。西塔与五郎、西国兵五郎、坂東又九郎、南北さぶ、山田甚八などの役者が出ました。西国兵五郎は出来口(当意即妙の洒落)で大いに笑わせたそうです。
また坂田藤十郎はやつし(身分を落として姿を変えること。またはわざと  みすぼらしく目立たないように姿を変えること)で笑いを含んだ演技をしたそうです。
(「笑いの歌舞伎史」)

芝居小屋の奈落を掘り下げて作った回り舞台たセリ上げセリ下げを創案したのは並木正三です。この人は歌舞伎の脚本家です。「幼稚子敵討(おさなごのかたきうち)」や「惟喬親王魔術冠(これたかしんのうまじゅつのかんむり)」という作品で当時、俄で使われていた「まかりいでたるそれがしは…」などのセリフを入れたり、俄の稽古の場面を作ったりしています。また、弟子の並木五瓶(ごへい)も「まかりいでたるそれがしは…」などのセリフを入れた作品を作っています。(「笑いの歌舞伎史」)

幕末嘉永の(1848~1853)頃の大阪で手爾波(てには)狂言が流行ったときも歌舞伎がかったセリフや所作で笑いをとったそうです。そして江戸の芝明神境内で興行をうったそうです。

天保六年(1835)、七代目市川団十郎がまだ海老増蔵と名乗っていたころ、博多で初めて興行をしました。その時に自分にセリフをまねている博多っ子のうまさに「博多はさすがに芸どころとはかねて聞いていたが、その名に恥じない」と関心したと言います。余談ですがその時に名僧仙涯和尚(86才)にお目にかかりたいと素麺屋久右ヱ門や合甫長右ヱ門を介して会っています。最初は仙涯和尚は役者の不行跡を嫌って「河原乞食」などと言って蔑み会おうとはしませんでした。しぶしぶで一瞬の面会でした。市川団十郎と素麺屋久右ヱ門が待っている隣の 部屋で自分だけお茶をたてて飲み片付けてもまだ和尚は出てこようとはしないので久右ヱ門がしびれをきらして「和尚さん、大分長う待っとります。一寸でもよござすが・・・」  「ウン、今行く今行く」しばらくすると襖が開いて和尚さん顔だけヌッと出し「どうした大きな目ん玉な」と言って襖をピシャッと閉めた そうです。久右ヱ門は気の毒で団十郎に平謝りしたそうですが団十郎は「素麺屋さん、いやよい博多みやげができました。実に仙涯様は活き仏だ。ありがたい。市川の家は目玉一つが生命です。今、仙涯様に点眼の法要をしていただきました。千両箱のひとつたふたつどころではありません」と言って和尚の方を向いて礼拝したそうです。その後、団十郎の家に「お江戸では市川二かわ知らねども、ピンと跳ねたる海老の目の玉」という和尚の軸物が届いたそうです。

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